吉本新喜劇のようなポスターを公開した星組公演『記憶にございません!』-トップ・シークレット-『Tiara Azul -Destino-』。チケットも出回り、後には引けない段階にきている。
しかし事件を利用し、上手く善人として生まれ変わる話だ。
「自殺によって宝塚は改革され、良い劇団になりハッピーエンド!めでたしめでたし」と内輪な風刺になる。パワハラとか不謹慎のレベルではない。
公開いじめ、嫌がらせだ。
残酷過ぎる。
そもそも元の映画自体が、現実を茶化すことで成り立つ笑いなのだ。
映画が公開された2019年はオリンピックパラリンピックに向けて、多くのいざこざがあった後頃である。日本の各業界でトップに登り詰めていた人々の、不祥事や失言が次々明るみに出た。
白々しく「記憶にございません!」みたいなことをいえば即世間から袋叩き、キャンセルカルチャーの的にされた。
当時はコロナで丸ごと延期なんて思いもしなかったため、クリーンで完璧なオリパラを求めていたのだ。神経質になり過ぎていた面はあった。
それまでは権力者の汚職が明らかになっても、堂々としていればそのうち忘れられる傾向があったように思う。認めたら負けだからこそ「記憶にございません」のような返しが定番となり、実際に逃げきれたのだろう。
しかし上級国民としての振る舞いにはバッシングが強まり、SNSの発達で退任まで追い込むのが一種のブームとなった。
そんな頃、苦しみや憤りを訴える人々にまぁまぁ~そんな目くじら立てなくても~と軽く宥め、何でも明るみに出せばいいってもんじゃないし~根は悪い人じゃないんだよ~とフォローした映画だ。
宙組公演 『カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~』で天彩峰里を擁護したシーンを、今度は宝塚歌劇団の総意として1幕丸ごと使ってやるのだ。
変わらなきゃとは思っているけど、そう簡単じゃないし。加害者とされても、現実的な事情や合理性もある。
公式HPでは週刊誌に対抗したコメントも掲載したけれど、荒療治として文春砲を機に生まれ変わるのもアリだよな~という本音と建前を突いた。週刊誌にすっぱ抜かれた程度なら、ある意味最適な作品だったとは思う。
しかし、人が亡くなった以上やるべきではない。
宙組でやる予定だったがいくらなんでも不味いので星組に変えた、という説も分からなくはない。
スーツもので、現代的な社会派コメディ。いかにも宙組カラーに合っている。
『Xcalibur エクスカリバー』と『FINAL FANTASY XVI』 の神秘的な世界観やコスチュームの後にピッタリだ。
トップスターの芹香斗亜は、白と黒の2面性を表現するのが得意な役者である。雰囲気から別人のようにガラリと変える「悪徳政治家から善良に変貌」はハマりそうだった。
一方、礼真琴は常にオールマイティーでいくキムタク芝居タイプだ。
「宙組から星組に変えるだけでも大変だったのに……」といわれると、配慮乞食かなと自戒してしまう。
しかし三谷幸喜作品なら宝塚っぽい『ザ・マジックアワー』やグランド・ホテル形式そのままの『THE 有頂天ホテル』があるなか、『記憶にございません!』を選んだ。
週刊文春ありきの演目である。
自殺騒ぎまで想像出来なかったとしても、リスクは覚悟の上だったはずだ。
なぜ代替案ぐらい用意してないのか?
その認識の浅さと甘さが、問題を引き起こしたのだ。
忘れてはならない。